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びゅ…う…
重苦しい風が、苦しみ喘ぐかの様に唸った。
空は歪み、大気は淀んでいる。
いや、この地は江戸と呼ばれていた頃から病んでいた。
もしかしたら、それ以前からかも知れぬ。
生まれる前のことなど分からぬが、そんな気がした。
ふと、横を何かが抜けた。
咄嗟に手で掴む。
風が鳴いた。
天を仰ぐと、大小に差はあれど、同じ『それ』が流れて行った。
もうそんな時期か…
去年も、一昨年も、一昨々年も
同じように『それ』を掴んだ。
黒い雲が天を覆っている。
雨が降りそうだ。
編み笠を深く被り、黒い番傘を広げた。
傘を被って傘差してやがる。
傘売りが傘の使い方も知らねぇのか。
そんな揶揄(やゆ)を『それ』らが飛ばした。
嘲笑を浴びながら、傘売りは口元を上げる。
お前ぇら風に流されて、傘の一つも差せねぇじゃねぇか。
お前ぇらこそ、傘の一つも差してみやがれ。
聞く耳持たぬと言いたげに、『それ』らは遠くに飛んで行った。
「江戸っ子よりもせわしねぇ」
手に取った『それ』を手放すと、横に置いた背負子(しょいこ)を引き寄せた。
傘売りは背負子を担ぎ、『それ』らと風をはらんで飛んで行った。
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「じゃあ、気をつけてね、美樹」
「うん、また明日!」
「何かあったら、すぐ電話かけなよ!」
「分かってる。ありがとう、由美」
電車の扉が閉まり、ゆっくりと動き出した。
ホームで由美が心配そうに、こちらを見ている。
心配ない、と軽く手を振った。
車内に視線を戻す。
鞄から鏡を取り出した。
前髪を気にする振りをして、角度を変え、隣の車両を映し出す。
男がジッとこちらを見ていた。
薄気味悪くなり、すぐに鏡を戻す。
最寄り駅に着き、急ぎ足で改札を抜けた。
雨が激しく降っている。
そわそわと辺りを見回した。
母はまだ来ていない。
約束の時間は、とうに過ぎている。
渋滞しているのだろうか。
後ろから嫌な視線を感じた。
かなり近い。
「俺が送ってってやるよ」
全身から血の気が引いた。
紺色のブレザーから出る色黒い手が、肩の上に乗った。
「いいわよ…ママが車で迎えに来るから」
「メールでも打っておけばいいだろ」
「…いいの!雨ん中歩きたくない」
「だから、俺の傘に入れてやるって」
「本気でうざい、あっち行って」
青年は、無理矢理手首を掴んできた。
ゾッとして振り払おうとするが、力の差は歴然だ。
「放してよ!」
「美樹…お前、何で俺のこと避けるんだよ!」
「別に避けてないでしょ!」
「嘘つけ!」
本気で睨まれ、体がすくんだ。
危険だ。
こいつ、どうにかしている。
強く引かれた手を、思い切り相手に向かって突き出した。
相手の力も加わり、勢いよく相手の顔にめがけ、裏手の拳を伸ばした。
一瞬ひるんだ隙に、足を思い切り踏む。
「痛ってぇ!」
トドメに鞄を振り回し、相手の顔にぶつける。
相手が転倒した。
鞄の遠心力で自分もこけそうになったが、鞄を脇に抱えて必死に逃げる。
後ろから罵声と、走る足音が聞こえる。
あまり足は速いほうではない。
加えて、この大雨だ。
相手との距離が、縮まっていくのを感じる。
避難したくても、逃げ込む店が無かった。
高級マンションばかりで、すぐに中に入れそうな家も無い。
やはり逃げるんじゃなかった。
駅で助けを呼べば良かった。
考えてみれば、交番があったはずである。
だが、今更後の祭りだ。
突然後ろにグイッと引かれた。
鞄の端に、色黒の手が見える。
必死に鞄を投げ捨て、横に見えた路地に逃げ込んだ。
ゴミ箱や空のビールケースをなぎ倒す。
後ろから、舌打ちが聞こえた。
もっと、もっと逃げないと…!
だが、路地を出たところで何かに蹴躓(けつまづ)いた。
派手に転倒する。
水しぶきが踊った。
「いったぁ…」
顔も手も制服も、全身ずぶ濡れの泥だらけだ。
雨は依然として、強く降りかかってくる。
ギリギリと拳を握り締めた。
どうして、こんな事になったのか。
自分のせいなのか。
何もしていないのに。
どうして…どうして……
「そりゃぁ、お互い様でござんしょう」
聞きなれぬ声が背後に聞こえ、打ちつける雨が止んだ。
振り返ると、まるで時代劇から飛び出してきたような格好の若い男が、番傘を傾けている。
息を呑み、座ったままゆっくりと後ずさった。
「おおっと、別にどうこうしようって訳じゃございやせん。逃げないでおくんなせい。」
それは無理な相談である。
ボロい着物に、奇妙な荷物、編み笠で顔は良く見えない。
追いかけてきた相手よりも、姿形が怪しすぎる。
「まぁ、もうずぶ濡れで意味がねぇが、雨を浴びてちゃ、どんどん気がそがれやすぜ。それに、ここにあんまり長居は無用でさぁ」
編み笠を被った男は、チラッと横を見た。
美樹もつられて見ると、長屋と言うのだろうか、寂れた軒並みが連なっている。
戸口や窓からは、何やら黒い影が、こちらの様子を伺っていた。
一瞬目が合った。
美樹は怖くなって短く悲鳴を上げる。
すると、戸口から覗いていた『それ』が、一斉に勢いよく飛び出して来た。
「いやぁあああ!!」
「ってぇ、言わんこっちゃねぇ!」
編み笠を被った男は番傘を閉じると、勢いよく『それ』らに打ち付けた。
地獄の底から響くような断末魔を上げ、『それ』らが霧散する。
編み笠を被った男が、番傘で牽制した。
「ッち、キリがねぇ…譲ちゃん、ちょっと手荒な真似になりやすぜ!」
「え…?」
編み笠を被った男は、背負子から蓑(みの)を引き剥がし、美樹を包んで肩に抱えた。
「え、ちょっと!!」
「歯ぁ食いしばらねぇと、舌噛みやすぜ!」
そういうのと同時に、男は走り出した。
高速道路で窓を開けた時よりも激しい風圧。
激しい揺れと吹き付ける風に、美樹は気を失った。
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