MAISON Pict


夜の帳が降りた彼誰刻(かわたれとき)、見上げた安アパートが、切れかけの街灯で青白く浮かび上がっている。
部屋の光は一つもない。
都心の喧騒などナンセンスだとでも言いたいのだろう。

塗装の剥げた鉄製の階段に慎重に脚をかける。
甲高い音と、染み渡るような重低音が控えめに揺らいだ。
更に緊張を強いられるのは目の前の金属製の扉。
鍵を差し込み、素早く回し、力を込めて止める。
更に素早く扉を開け放ち、体を捻って滑り込みながら、隙間が1cmになるまで閉め、音を立てないようにゆっくりと残りを引く。
そして、スナップをきかせて施錠。

「80点」

中々の高得点、そして疲労感。
きっと一般の女性達は、この手間と引き替えに、家賃を惜しまず、良い部屋を借りるのだろう。
でも、この位の緊張感は生活に必要だと思う。
そんな誰に向けるでもない言い訳を、律子は心の中で呟いた。

化粧を落とすと、残り物をレンジに押し込み、クルクルと回る夕食をしばし眺めた。
回転を目で追って、ほんの少しの目眩を感じる。
まだまだ修練が足りない。
脚を若干もつれさせながら、夕食を手に、低いテーブルに着いた。
テーブルには、ノートパソコンが置いてある。
畳んだディスプレイを持ち上げると、怪しいキリキリという音と共に、真っ暗な画面が少し明るくなった。
デスクトップは真っ黒の無地にしてあるので、著しい変化はない。
左端のアイコンを2回選択すると、再度キリキリと音を奏で始めた。
砂時計のマークが出たので放置して夕食を食べ始める。
1分程待つと、小さなウィンドウ(安アパートのボロ窓では無い)が現われた。
しばらく真っ黒だったが、そのうち、よく分からない英数字の文字列が並び、最後に

「更新が完了しました」

と書き記され、暗い白い部屋の画面に切り替わった。
律子は、じっとその映像を眺める。
その中には、小さくうずくまっている人の姿があった。
といっても、本物の人ではない。
3DCGのキャラクターである。

名前はエアと付けた。
銀色の短い髪に紅い瞳、華奢な体つきは女性の様だが、データ上は男性キャラクターと言うことになっている。
整った顔つきは美人とも言えるが、これと言って特徴は無い。
強いて言うなら、何も身につけていないのが最大の特徴かもしれない。
ただ、一糸纏わぬその姿は、決して律子の趣味ではない。
必然とそうなってしまったのである。

エアはウィルス対策ソフト“ファントム”に内蔵された、操作補助をしてくれるナビゲータだ。
姿形は、使用者が自由に設定する事が出来る。
また、人工知能を持っていて、会話画面に文字を打ち込むと、どんどん言葉を覚えていく。
と言っても、エアと会話をした事は一度もない。

“ファントム”は、ウィルス対策ソフトには無駄でしかないこの高機能が、一部のパソコンマニアの間で爆発的にハヤリだし、今や老若男女を問わず購入されている。
律子も、その流行に乗った一人だ。
しかし、ナビゲータに着せる装飾品や部屋の家具などのオプションデータの買い物、ファントムを使用した他のユーザーとのチャットなどとは無縁で、結局、機能の1割も使いこなせていない。

ぼーっと画面を眺めていると、エアが動きだした。
部屋の出口(何処に通じているか不明)に近付き、小さな四角い穴から手紙を取り出した。
マウスを操作して、エアに手紙の送信者を調べさせる。
じっと手紙を見つめるエアを、律子はじっと見つめた。
しばし間を置いて、手紙の一覧が表示される。全部見知らぬアドレスだ。
削除ボタンを素っ気なく押すと、エアは頷いて近くのゴミ箱にぽいっと捨てた。
使用者にない可愛げが、エアには全部備わっているように思える。
個人的愛着心を差し引いても、誰もがそう思うに違いない。

自嘲気味な雰囲気を悟ったのか(というより、単に手を止めていたせいで)エアがつまらなさそうに、部屋を徘徊し始めた。
これで家具があれば、色々アクションをするのだろうが、生憎そんな余裕はない。

気の毒なので、ドラッグとクリックでエアの気を引いた。
律子に向かってエアが静かに微笑む。
更に素早くクリックすると、パソコンがキリキリと鳴り、少し間を置いてエアが嬉しそうに手を広げた。

これはナビゲータとのコミュニケーションの一つだ。
パソコンを初めて間もない頃、説明書でこの機能の記述を読んだ律子は、薬物使用のアブノーマルなプレイかと思って、かなり焦った思い出がある。
実際やってみると大した事ではなかった。
ただ、エアは真っ裸である。
そんなつもりでやっているわけではないが、妖しい遊びに見える。
なので、余りしつこく遊ばず、頭を撫でては、しばらく放置した。

エアと遊んでいると、突然エアの部屋の扉が、嫌な音を立てて開いた。
律子は一瞬ドキッとする。
扉の奥から、黒い人型の影が侵入してきた。

黒い影がエアに迫る。
首に手をかける。
エアが苦しそうに藻掻いた。
必死に影を突き放す。
刹那の安堵。
エアがグッと腰を低くし、勢い良く飛び上がる。

キリキリキリキリ…

飛び上がった瞬間、突然のスローモーション。

キリキリキリキリ…

エアと影が制止する。
一瞬で戻る時間。
エアが、目にも止まらぬ早業で回し蹴を決めた。
影は一瞬で消失する。

今のが、ウィルス駆除のシーンである。
エアが、一番頼もしく感じる瞬間だ。

すかさず、律子はエアの頭を撫でる。
エアが満足そうに笑った。

「リツ」

吹き出しが浮かび、エアが話し掛けてきた。
律子は何もせず、凝視する。
エアが首を傾げた。
ダメだ、無視しなければ。

「リツ、大丈夫?」

エアが、まだ話し掛けてくる。
じっと自分を見つめている。
手にとったマウスを、躊躇いながらクリックした。
別のウィンドウが現われる。
キーボードに手をかけ、文字を打ち込む。
“返答”というボタンを押した。

画面が真っ暗になる。
律子も一緒に固まった。

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